安政六年(1859年)、横浜開港と同じ年に生まれた日本舞踊の流派——それが七々扇流です。名付け親は、幕末の風雲児・勝海舟。最も西洋に近い港町で、最も日本的な美を、横浜とともに守り継いできました。
勝海舟と七々扇流 ― 幕末横浜に生まれた流派
七々扇流の祖・市山里(いちやま さと)は、徳川御三卿の一・田安家に出入りする狂言師でした。しかし幕末の動乱は彼女の立場を奪い、里は港の花街へと身を投じます。その新たな門出に際し、祝いとして名を贈ったのが勝海舟でした。海舟は里に「七扇小橘(ななおうぎ こきつ)」の名を与え、これが横浜の地に根を張る一流派の始まりとなりました。
横浜が開港したのは安政六年(1859年)。西洋文化が一気に流れ込むこの新天地に、海舟は大きな可能性を見ていました。古い因習に縛られた土地を離れ、横浜で新たに生きるよう、彼は里に具体的に勧めます。その助言を受けた流祖は、東海道・戸塚に居を構え、横浜花街専従の舞踊師匠として活動を始めました。国家の舵取りに奔走する海舟が、一人の芸能者の将来をも導いた——その事実は、彼の人柄の大きさを物語ります。
維新後、海舟は伯爵となり元老院議官の重職に就きますが、里は横浜花街の一師匠であり続けました。両者の間には大きな身分差が生じましたが、流祖と歴代の家元は、その縁をあえて表に出しませんでした。海舟の名を宣伝に用いることを潔しとしない「隠し心」——江戸風の奥ゆかしさこそが、七々扇流が長く守ってきた精神です。
興味深いのは、西洋の匂いに満ちた港町にありながら、七々扇流が驚くほど「古風」であり続けたことです。外国人向けに芸を変えることもなく、新奇さを迴うこともなく、ただ老松のごとき風格をもって正統の日本舞踊を継承しました。最も西洋に近い場所で、最も日本的な美学を守り抜く——この一見した矛盾こそが、七々扇流の独自の価値を形づくっています。
※本稿の史実は、松本亀松『七々扇舞踊史話』に基づいています。
歴代家元の系譜
流祖・市山里から五代目家元まで、横浜とともに歩んだ系譜です。各代の見出しをタップすると詳しい経歴をご覧いただけます。

初代家元 ― 七扇流の礎を築く
二代目小橘は流祖・市山里の実子で、幼少期から四代目西川扇蔵の門下となり、西川国助の名を許されました。この名は流祖の没後まで使用されていました。彼が七扇流初代家元であり、母・里とともに東海道筋の戸塚に住み、横浜花街の専属師匠として歌舞伎興行に振付師として関わり、七扇流の基礎を築きました。

二代目家元 ― 中央舞踊界での活躍
二代目家元・三代目七扇小橘は初代家元(二代目小橘)の実子(娘)であり、家元襲名前は初代花助と称しました。若い頃から藤間勘右衛門(勘翁)に師事し、芸の修行に励みます。横浜の大師匠として中央の舞踊界でも活躍し、日本舞踊協会の設立に参画して理事を務めました。

三代目家元 七々扇花助 ― 戦後復興と「七々扇」への改名
三代目家元・二代目七扇花助は、大正十四年に七扇橘江となり、昭和六年に二代目花助を許されて事実上の芸養子となりました。昭和十三年に二代目家元が没した後、三代目家元となり、戦後の復興とともに横浜花街を中心に活躍。日本舞踊協会神奈川県支部の初代支部長として普及に貢献し、昭和六十二年には勲五等瑞宝章を叙勲されました。一九九三年三月一日に没しています。
昭和四十二年には甥の大橋一夫を芸養子として迎え、流派名を「七扇流」から「七々扇流」へ改めました。これは自身の血縁が絶えること、そして初代の墓に「七々扇」と刻まれていたことに因むものです。以後「七扇」は止め名として用いていません。

四代目家元 七々扇花瑞王 ― 歌舞伎と舞踊界をつなぐ
四代目家元・七々扇花瑞王は三代目家元の甥であり、五歳で花助に入門、十八歳で初代七扇花瑞王として名取りしました。昭和四十二年に芸養子となり改名。日本大学芸術学部を卒業後、歌舞伎の坂東蓑助に師事して菊五郎劇団に所属し、坂東秀五郎として六年間在籍。その後退団し、昭和五十二年に七々扇流四代目家元を襲名しました。日本舞踊協会の参与として流派を超えて創作・古典舞踊の発展に尽力し、創作舞踊劇場公演や深川「をどり」公演の制作・企画、神奈川県支部の相談役・役員、全舞連理事、NHK芸能花舞台などで活躍。二〇二四年十月二十九日に逝去しました。

五代目家元 二代目七々扇花瑞王 ― 次世代への継承
五代目家元・二代目七々扇花瑞王は四代目家元の長男であり、三歳から三代目家元の手ほどきで日本舞踊の稽古を始めました。名取名は七々扇瑞希。十八歳で師範免許を取得し、日本大学芸術学部を卒業後は、日々の稽古に励みながら、洋舞との創作共演、報知新聞社主催「華扇会」、七々扇流主催の会や夏季勉強会で研鑽を重ねています。四代目家元が晩年に力を注いだ、子どもたちへの日本舞踊体験講座を継承し、姉である三代目七々扇花助とともに、次世代への普及に力を注いでいます。二〇二五年、二代目七々扇花瑞王を襲名しました。
横浜に根づいて、今 ― 地域とともに歩む流派
五代目家元・二代目七々扇花瑞王は、創流の原点に立ち返り、横浜に根づいて活動することを大切にしています。日本舞踊が最も盛んなのは、今も東京——それは事実です。それでも、毎年神奈川県のどこかで必ず舞台を持ち、地域の文化として日本舞踊を伝え続ける。これは創流の地・横浜への、家元としての敬意です。
横浜の名園・三溪園とのご縁も、流派の歴史と深く結びついています。横浜を代表する実業家・原三溪が作詞した小唄「濱自慢(はまじまん)」——横浜を活気づけるためにつくられたこの一曲に、二代目家元・七々扇小橘が曲をつけました。一度埋もれかけたこの作品を、四代目家元・七々扇花瑞王が資料から現代に蘇らせ、五代目は今も大切に上演を続けています。横浜の名園・三溪園で催される「観月会」の舞台にも、これまで七々扇流として招かれ、ゆかりの演目を披露してまいりました。
神奈川県内の学校での特別授業、芸術鑑賞会、体験講座——子どもたちに直接、所作の意味と日本舞踊の世界を伝える活動も、四代目家元から継承し、毎年続けています。古典芸能を「知らないもの」から「自分たちの文化」へ。地域とともに歩む流派として、未来の担い手にこの美をつないでいきます。
安政六年から続く流儀として、本格的な古典舞踊を中心に、地域性を活かした純粋な基本を後世へ伝えること。代々受け継がれてきた伝承曲の継承と、初代に立ち返る創作・振付の新作発表。そして、横浜という土地で、横浜とともに生きていくこと。これからも、横浜の文化を担う一流派として歩んでまいります。


