会場でしか味わえない日本の「心」
安政六年から受け継がれる伝統の「型」

七々扇流について (松本亀松書/七々扇舞踊史話より)

七々扇流(旧七扇流)は、横浜港の開港と同時に誕生し、港とともに育った流儀です。その特徴は、洋風の要素がまったくないところにあります。古風な日本舞踊の伝統を大切に守り続けている点が、少し皮肉にも感じられるほどです。

七々扇流と名付けたのは、あの「勝海舟」です。

元々、田安家に仕えていたお狂言師の市山里(江戸市山流家元の養女)が、時代の波に乗って港の花街に移り住みました。そのため、新しい要素を取り入れることなく、逆に港での地盤を固め、一流の流派としての地位を築くことができたのです。もし外国人向けのサムライ商会になっていたら、今では過去の思い出しか残っていなかったでしょう。

この流派の背後には、勝海舟の存在もあります。海舟は市山里に新生活の門出を祝って「七扇小橋」の名を与えました。これが現在の七々扇流へと発展したのです。当七々扇流は市山里を流祖とし、初代七扇小橘としています。

初代家元

二代目小橘は流祖の実子で、幼少期から四代目西川扇蔵の門下となり、西川国助の名を許されました。この名は流祖の没後まで使用されていました。彼が七扇流初代家元であり、母親の里とともに東海道筋の戸塚に住み、横浜花街の専属師匠として歌舞伎興行に振付師として関わり、七扇流の基礎を築きました。

二代目家元

二代目家元・三代目七扇小橘は二代目小橘の実子(娘)であり、家元襲名前は初代花助と称しました。彼女は若い頃から藤間勘右衛門(勘翁)に師事し、芸の修行に励みました。横浜の大師匠として中央の舞踊界でも活躍し、日本舞踊協会の設立に参画し理事を務めました。

三代目家元

三代目家元 七々扇花助

三代目家元・二代目七扇花助は大正14年に七扇橘江となり、後に昭和6年に二代目花助を許され事実上の芸養子となりました。昭和13年に二代目家元が没した後、三代目家元となり、戦後の復興とともに横浜花街を中心に活躍しました。また、日本舞踊協会神奈川県支部初代支部長として日本舞踊の普及に貢献し、昭和62年には勲五等瑞宝章を叙勲されました。1993年3月1日に没しました。

昭和42年に甥の大橋一夫を芸養子として迎え、七扇流を七々扇流に改名しました。この改名理由は、三代目家元が自分の血縁が切れることと初代の墓に「七々扇」とあることに因みました。以後、「七扇」は止め名として使用を禁じています。

四代目家元

四代目家元 七々扇花瑞王

四代目家元七々扇花瑞王は三代目家元の甥であり、5歳から花助に入門し、18歳の時に初代七扇花瑞王として名取りしました。昭和42年に芸養子となり、前記の通り改名。日本大学芸術学部を卒業後、歌舞伎の坂東蓑助に師事し、菊五郎劇団に所属し、坂東秀五郎として6年間在籍。その後退団し、昭和52年に七々扇流の四代目家元を襲名。

三渓園 観月の会にて

七々扇流の門弟の指導を中心に、日本舞踊協会の参与として創作・古典の日本舞踊の発展のために流派を超えて協力。具体的には、創作舞踊劇場公演や日本舞踊協会深川「をどり」公演の制作実務・企画などに携わる。また、(社)日本舞踊協会神奈川県支部の相談役として、創作・古典と日本舞踊の発展のために流派を越えて協力、神奈川県支部役員としても活躍、全舞連理事、NHK芸能花舞台、その他にも出演。2024年10月29日に逝去いたしました。

五代目家元

五代目家元七々扇瑞希は四代目家元の長男であり、3歳から三代目家元の手ほどきをうけ日本舞踊のお稽古を始める。お稽古を続け、18歳で名取(七々扇瑞希)師範免許を取得。日本大学芸術学部を卒業後は、日々の稽古に勤めながら洋舞との創作共演や、報知新聞社主催「華扇会」、七々扇流主催の会および夏季勉強会で研鑽を重ねる。
四代目家元の晩年に力を入れていた子供たちに教育の一環として日本舞踊を体験講座を共同で行う。姉である三代目七々扇花助とともに、現在も次世代に向けての日本舞踊の普及に勢力を注いでいます。

 

安政六年から続く古い日本舞踊の流儀ですが、本格的な古典舞踊を中心に、地域性を活かした純粋な基本を後世に伝えることです。代々受け継がれてきた伝承曲の継承と初代に戻る創作・振付師としての新しい作品の発表を心掛けています。