〜日本舞踊〜 七々扇についてのお話し

昔々のお話し

七々扇流は港横浜に、開港と同時に生まれて、港とともに生育した流儀である。といって、洋風のにおいが少しもしないところが、この流儀の特徴でもある。いわば古風で日本舞踊の伝統を、大切に守っているというところは、いささか皮肉と言えば皮肉と、納得ができるのが面白い。大体、田安家のお出入りのお狂言師市山里が、時勢の波にのせられて、屋敷勤めの野暮堅さが抜けきれぬままに、港の花街に泳ぎついたのであるから、新しくなる筈もなく、また新しがらなかったから港に地盤ができて、一流樹立の栄誉をにない得たのだと思う。いわゆる外国人向きのサムライ商会になっていたら、今は遠い昔の思い出だけしか、残っていなかったと思う。

この一流樹立の蔭に、勝海舟がいるのも興味深いことだ。先代家元、三代目七々扇小橘はこの事実を、隠しにかくしてきたというが、世間では薄うす知られていた。隠した気持ちは古風なのだ。

海舟には一面下町っ子的な生活があり、芸能に趣味をもち、そうした社会の人々の世話もし面倒も見た。その繋がりが、表向きの役職と同居していた。流祖が初代家元を含め、横浜移住をしたのは、海舟のアドバイスであったと見られる。当然、そうあって不思議はない。

これを機会に、海舟は市山里に新生活の門出を祝って「七々扇小橘」の名を与えた。これが将来、七々扇流と発展したものである。

二代目と三代目のお話し

二代目小橘は流祖の実子であり、流祖の没後二代目小橘を襲名している。七々扇流初代家元である。年少にして四代目西川扇蔵の門下となり、西川国助の名を許され、この名を流祖が没するまで使っていた。

横浜開港の当初から東海道戸塚に住み、横浜花街専従の舞踊師匠となり、同地の歌舞伎興行に振付として関係し、七々扇流の基礎を作った。

三代目小橘は、二代目小橘の実子であり、七々扇流二代目家元である。小橘襲名以前は花助(初代)と称した。若かりし頃より藤間勘右衛門(勘翁)について、芸の修行をしたほどの、芸熱心で通った人である。そして、横浜の大師匠で中央の舞踊界にも認められ、波田海蔵会長の日本舞踊協会では、横浜から参加して理事を勤めていた。

現在のお話し

三代目家元は二代目七々扇花助で、二代目家元小橘の養女である。日本舞踊協会参与、同協会神奈川支部長を勤めていた。甥の七々扇花瑞王が四代目家元となった。花瑞王は日本大学芸術部演劇学科卒業後、九代目坂東三津五郎に師事。歌舞伎修行の後、現在に至る。2011年3月に家元の長女が三代目花助を襲名した。

流祖が七々扇小橘を名乗って以来、現在まで百五十有余年になるが、この歳月の間に、じっくりと根を張り、枝をのばして、老松の風格を備えた、伝統の流儀になった。

要は港とともに発展し、成長した七々扇流であって、横浜が誇る芸能の老舗である。

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